ドールがバナナ業界に与えた影響 フレッシュMDホールディングス株式会社 常勤監査役 永澤賢一氏

永澤賢一 KENICHI NAGASAWA

昭和17(1942)年、千葉県生まれ。昭和41(1966)年、東京大学経済学部卒業後、住友商事株式会社へ入社。昭和47(1972)年より青果部バナナ担当、昭和49(1974)年~53(1978)年ダバオフルーツコーポレーションへ出向し、フィリピン・ダバオに駐在する。昭和54(1979)年、住商フルーツ株式会社へ出向、食品部加工食品担当、農水産開発室長、取締役物資本部長、常務取締役中部ブロック長、専務取締役生活産業部門長を務め、平成17(2005)年退任、顧問就任。平成20(2008)年に住友商事株式会社を退社し、平成21(2009)年、フレッシュMDホールディングス株式会社(現:株式会社ファーマインド)常勤監査役を経て退任。

産業政策としての台湾バナナ

現在、日本で流通しているほとんどのバナナが、
フィリピン産のキャベンディッシュ(Cavendish)ですが、
かつて大量に輸入され、日本人に親しまれていたバナナは「台湾バナナ」でした。
バナナが最初に日本に持ち込まれたのは、明治27(1894)年の日清戦争以降のことです。
日本が領有権を持っていた台湾に自生していたバナナを、
産業政策の一つとして着目したことがきっかけでした。
農業分野の多くの専門家によって、
品種改良などの研究が大変な熱意を持って進められていたといわれています。
こうして台湾バナナは安くておいしい大衆果実として成長していきました。

  • 籠[かご]に入れられ、貨車に積み込まれる台湾バナナ
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台湾バナナの衰退の背景

戦後も国内のバナナ需要はどんどん高まっていきました。
大型スーパーマーケットの全国展開が進んだ昭和40年代、
一年中取り扱えるフルーツとして人気が高まったバナナは、
全国のスーパーマーケットから大量に求められるようになりました。
多数の小規模農家によって栽培されていた台湾バナナでは、季節によっては供給量に限界があったうえ、
エクアドルやコスタリカなどの南米産のバナナがどんどん輸入されるようになり、
台湾バナナのシェアは次第に減少。危機的な状況に追い込まれていきました。
また、台湾バナナは籠[かご]に入れて輸送されていたため傷が目立っていたのに対し、
南米産バナナは固い段ボール箱のカートンで輸送されていたので、見た目に優れていました。
他国のバナナの登場により、台湾バナナのさまざまな欠点が露呈したことも、
台湾バナナが市場人気を失う大きな要因だったといえます。

  • 「ライフストア塚本店」の野菜・果物売り場の様子(昭和40年代)
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ドール、バナナ業界に革命を起こす

大阪万国博覧会が開催された昭和45(1970)年、
ついにエクアドルバナナが台湾バナナの輸入量を抜いて1位になり、
そのわずか3年後の昭和48(1973)年には、フィリピンバナナが1位へと、
バナナの歴史は変遷していきます。
この頃、全国のスーパーマーケットからは品質が一定で棚持ちの良いバナナを
求める声が上がっていましたが、実際は青くて固いものもあれば、
熟し過ぎているものもあり、品質にむらがある状態でした。
これは、当時の「青売り」と呼ばれる取引方法に起因するものです。
バナナは法律によって未成熟な青バナナで輸入されます。
港での荷揚げ後、青い状態のまま業者間の取引が行われていたため、
その後の輸送状況や、バナナを熟成させる追熟加工の技術の違いによって、
スーパーマーケットなどに届けられるバナナの品質や状態にバラつきが起きていたのです。
そこへ「色売り」という画期的なアイデアをバナナ業界へ持ち込んだのが、
ドールの元副社長である堀内達生氏でした。
バナナを青売りしてあとは業者に任せるのではなく、自分たちで追熟加工し、
黄色く熟成した状態で直接スーパーマーケットなどの小売店と価格交渉しようと発想したのです。
そのためにつくられたのが、「ドールバナナ」の追熟加工を担うフレッシュシステムでした。
神戸や札幌、そして当時は荷揚げされていなかった名古屋などの港にまで
次々とバナナの加工センターをつくっていきました。
その結果、均一に加工された高品質な「ドールバナナ」が全国の店頭に並ぶようになったのです。
私はバナナ業界に40年間携わってきましたが、このドールの「色売り」は、
青果業界の仕組みを変える革命的な取り組みだったと、今でも強く印象に残っています。

  • 1977(昭和52)年、永澤氏ダバオ駐在中。駐マニラ 御巫(みかなぎ) 大使とともに、フィリピンバナナ生産者とのパーティーにて
  • 1983(昭和58)年、中東向けバナナの買付のため訪問した、
    コロンビア・トゥルボのエルパソ集荷場
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「ドールバナナ」、山に登る

その後もドールが打ち出すさまざまな取り組みは、業界を驚かすものばかりでした。
なかでも、それまでの青果業界にはなかったマーケティングと
マーチャンダイジングに基づいた商品戦略には目を見張るものがありました。
彼らは入念なマーケティング調査により「高地栽培バナナ」という
新たなトレンドを生み出しました。かつて人気を博した台湾バナナの甘さを
懐かしむニーズが市場にあることを確かめ商品開発に役立てたのです。
品種の選定、栽培方法から輸送に至るまで徹底的に研究して誕生したのが「スウィーティオ」です。
通常のバナナの糖度は20度程度ですが、台湾バナナは25度以上です。
高地で栽培するバナナは25~26度くらいの糖度に育てることができるため、
かつての台湾バナナ以上の甘さを持つバナナをつくり出せたのです。
当時、私は他社の人間だったのではたから見ている状況でしたが、
ドールの皆さんはありったけの情熱を傾けて、「スウィーティオ」の開発に取り組んでいましたね。
それから、消費者にとって聞き慣れなかった「高地栽培バナナ」という
バナナの新たな概念を市場に浸透させるために行った、
単独では業界初となるTV CMを含めた広告展開や店頭プロモーションも斬新でした。
今日のバナナ人気を生み出した背景には、
業界全体に影響を与える新しい考え方を発想した、
ドールの功績によるところが大きいといえるのではないでしょうか。

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バナナが食べられなくなる可能性も?

現在は毎年100万トン前後のバナナが輸入され、日本中で食べられています。
非常にありがたい状況ではありますが、このような安定した需給に、
バナナ業界は安住しきっているのではないかと、私は危惧しています。
昭和47(1972)年に輸入量が106万トンになったとき、
市場にバナナがあふれるという事態になりました。
大量に持ち込まれたバナナをいち早くスーパーマーケットなどの小売店へ届けるために、
通常は5~7日程度必要な追熟加工を3日で終わらせ、
無理やり黄色く色付けたバナナを売っていたことがありました。
消費者にはすぐに「おいしくない」ということがわかりますので、
当然、バナナ人気が低下しました。
当たり前ですよね。食べ頃ではないバナナを売っているのですから。
そのような消費者の期待を裏切ることを続けていると必ず信用を失い、
消費者はバナナを買わなくなります。
私は現在のバナナ業界にも同じようなことが起きかねないと感じており、
今後バナナ人気が急落する可能性は十分に考えられることだと思っています。
市場にあふれたバナナを質が悪くても、とにかく安く売ることに注力する。
このようなことをし始めてしまったら、ゆくゆくはバナナ自体が市場から追放されてしまいます。
消費者へ安く提供することは悪いことではありません。
しかし、商品価値に見合った価格で、品質の劣化を起こさないままに
消費者へバナナを提供することこそ、大切なことなのです。
また、別の問題も浮上しています。かつてフィリピン産のバナナは
ほぼ100%が日本向けに出荷されていましたが、
最近では中国や韓国、中東などのマーケットへも進出しているようです。
そして、他国との買い負け現象により、
現在のフィリピンバナナの日本シェアは約45%程度まで下がっています。
このまま続くと、「日本は安いから中東へ輸出しよう」という現象が起き、
日本へバナナが入ってこなくなる可能性も否定できないのです。

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ドールの新たな展開に期待を寄せる

バナナは子どものおやつとしてだけでなく、
あらゆる世代に人気のある果物です。
とりわけ高齢者にとっては、栄養バランスに優れ、
やわらかくて食べやすいバナナは最適な果物の一つです。
私自身も含めてですが、高齢者は品質や味にはこだわりがあります。
消費者の高いニーズにきちんとした品質で応えられる商品を提供し続けていかなければ
いつかバナナは飽きられてしまうと思います。
ドールの高地栽培バナナのように、バナナの新たな可能性を見出す商品開発への取り組み、
商品の特性をあらゆるメディアを通じて消費者にきちんと伝えていく努力、
そして消費者を飽きさせない話題を提供し続けていくことが、
これからのバナナ業界に求められることではないでしょうか。
これからもバナナ事業の新しい可能性を見出し、
私たちを楽しませてくれるであろうドールに期待しています。

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