400年以上ものカツオ漁の歴史を誇る漁師町、高知県中土佐町久礼。140年以上前から地元で愛される「久礼大正町市場」は、近年では観光客が新鮮なカツオを求めて訪れる人気スポットとなっています。その入り口に店を構えるのが、「田中鮮魚店」です。店を率いるのは、「鰹のソムリエ」として知られる田中隆博さん。鮮魚店の経営にとどまらず、久礼のカツオ漁やカツオ食文化を未来につなぐため、長年にわたり地域の活動にも力を注いできました。豪快な笑い声とアグレッシブな行動力で、久礼のカツオ文化を盛り上げる田中さんにお話をうかがいました。
「フルーツでスマイルを。」を発信するDoleが、誰かの笑顔を未来へつなぐ人たちを訪ねるシリーズ。
フルーツのある時間に笑顔が生まれるように、日本のあちらこちらで、誰かの笑顔やワクワクを生み出すために活動を続ける人たちがいます。Doleは、そんな人たちの思いや取り組みにも目を向けていきたいと考えました。今回訪ねたのは、高知県中土佐町久礼で、カツオ文化を未来につなぐ「田中鮮魚店」です。
目次
400年以上の伝統を誇る、高知・久礼のカツオ「一本釣り」

高知県中土佐(なかとさ)町久礼(くれ)は、古くからカツオとともに歩んできた漁師町。一本釣りで獲れた新鮮なカツオは、町の人たちの食卓を彩り、市場をにぎわせ、地域の文化を支えてきました。田中さんをはじめ久礼の人たちにとってカツオは、単なる名物ではなく、暮らしの中に息づく誇りのような存在です。
──田中さんにとって、「久礼のカツオ」の魅力はどういうところにありますか?
久礼でカツオ漁といえば、400年以上の伝統を誇る「一本釣り」。巻き網漁と違って、一本釣りのカツオは傷がつきにくく、鮮度のいいものが獲れます。この地域では食べる分だけを獲るから、群れを獲り尽くさない。自分たちが美味しく食べるだけの量が上がれば、僕らは満足なんです。一本釣りってカツオにも、食べる人にも、環境にもいい。つまりサステナブルでエコな漁法なんです。
──400年以上も一本釣りが受け継がれているなんて、本当にすごいことですね。
一族一統が漁師の血統で、技術を伝承し磨き上げてきた土地柄で、漁師さんたちはみんなすごく優秀で真面目。技術としては高知県でもトップクラスです。カツオ漁を若いころやって、30代、40代ぐらいで船を一隻構えて独立するのがみんなの夢。そこからタチウオや飛び魚、メジカ漁とかをやる。道具づくりを親や親戚から習って、技術を磨いて。「今日は俺が一番カツオを獲ったぞ」とか言って、仲間内で切磋琢磨して競争するのが久礼の漁師さんたちなんです。
「なにかやらないと、うちの魚屋もこの町も廃れていく」
久礼で生まれ育ち、高校卒業後は東京の慶應義塾大学に進学した田中さん。大企業に就職が決まっていく大学の仲間たちを見て、東京で企業戦士として上を目指すことに疑問を持ち始めていたころ、縁あって高松の商社に就職。やりがいも感じた仕事でしたが、6年間のサラリーマン生活を経て、久礼の町に戻ってきました。
──なぜサラリーマン生活を辞めることに?
当時は「24時間戦えますか」っていうCMが流行った時代。僕も四六時中、気を張って仕事していました。こんなにも毎日エネルギーを使うんだったら、漁師さんたちみたいに昼は漁場で必死に働くけど、夜はお母ちゃんに怒られながらお酒飲んで寝るほうがメリハリあるなって。

有限会社田中鮮魚店代表取締役社長、大正町市場協同組合代表理事。1961年生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、商社に勤めたのち、1991年30歳のときに帰郷し、実家の「田中鮮魚店」に勤務。2001年から4代目として代表取締役社長を務める。
──「田中鮮魚店」を継ぐと決めて、帰郷されたんですか?
そうです。実家が魚屋なのに、魚屋をやったことないなって思って。幸い、父が町で一番の魚屋にしてくれていたので、資金も要らない、親のすねをかじりながら自営業の勉強ができる。何年かやってみて、この仕事に向いていたら続けようかなって。
帰ってきたのは1991年。ちょうどバブルが弾けて、70年代の「一村一品運動」が終焉したころ。観光にせよ、名物にせよ、自分たちでつくって町おこしをやらなきゃいけないという時期だったんです。
帰ってきて思ったのは、なにかやらないと、うちの魚屋もこの町も廃れていくな、ということ。以前は大きなタチウオが1匹5,000円で売れていたのに、2,000円でも売れないとか。このままじゃ人口もどんどん減っていって、田舎は太刀打ちできなくなるなって危機感を覚えました。サラリーマンを6年やったおかげで、現実を捉えられたんです。

──そんな状態で店を継ぐことは、サラリーマンよりも大変な気がします。
スリルを味わいたくて帰ってきたところがありますね。僕は自分でやりたい性分だから。小さいころから、自分で漁場を決め、道具を工夫し、結果も自分で引き受ける漁師さんたちの姿を見てきた。その影響は大きいと思います。
当時はスーパーがどんどん出店している時代。スーパーの魚は安いから、うちの母親はじめ市場のおばちゃんたちは対抗して魚を安く売った。でも安売り合戦では資本力のあるほうがどうしても勝ってしまう。うちの店で売るってことは、なにか付加価値がないとビジネスにならないなと思って。
40mの長さのこの商店街に、20軒ぐらいのお店がずらっと並んで、当時60代のおばちゃんたちが昼から夕方6~7時くらいまで、漁師さんたちが釣ってきた魚を売っていました。おばちゃんたちが年老いて倒れる日まで笑顔で仕事してもらうために、この商店街を続けること、「久礼のカツオ」を有名にすることが僕の役目だと思ったんです。
カツオ漁師の年収を500万円から1,000万円に
──「久礼のカツオ」を有名にするために、「田中鮮魚店」でやられたことはなんですか?
まずうちの店からはハズレを出さないことを目標に目利きの技術を磨きました。カツオはマグロに負けないぐらいのポテンシャルがある魚だけど、美味しいと思われていない。というのも、カツオはアタリ・ハズレがあるから。100本切ったら、だいたい15本ぐらいは「ゴシ(まずいカツオ)」があるんです。
僕の目利きとしての仕事は、まず競りでは、目の透明感や身の色の鮮やかさを見て鮮度を確かめる。そして店で身をさばいたときに断面に現れる風合いを見る。最後は触診です。カツオは硬すぎても柔らかすぎてもダメ。弾力があるけれど硬くない状態がいいんです。その見極めを触診でします。これが難しくて、習得するのに20年ぐらいかかりました。

──「田中鮮魚店」といえば、藁焼きのタタキも大人気ですね。
久礼ではカツオの鮮度が重視されるので、焼きすぎはダメ。外側を1~2mm程度だけ焼いて、身の中に熱が伝わらないよう、短時間で一気に焼きます。

父が店主のときは、あぶったカツオを氷水で冷やしていましたが、水を吸うと味が落ちる。そこで冷凍庫で急速に冷やし、焼けたところと赤身のコントラストを出しながら、生の味と焼いた風味を両方残すようにしました。
──カツオの価値は上がりましたか?
僕が帰ってきたときは、カツオの仕入れ値が1キロ250円。毎日命がけで漁に行くのに、カツオの漁師さんたちは年間400万円から500万円稼げたらいいほうでした。日本は失われた30年だったけど、カツオの値段は倍にしました。1キロ500円以下だったタタキの値段は1,000円になった。そしてカツオ船は15隻から4隻に減りましたが、漁師さんは1,000万円稼げるようになりました。みんなを笑顔にするには、町の血液であるお金をぐんぐん循環させないといけないんです。
「自分のために、社会のために、世界のために」

田中さんの地道な活動の結果、2011年には久礼大正町市場を中心とした町づくりは文化庁から「久礼の港と漁師町の景観」として重要文化的景観に選定。2013年には「優良経営食料品小売店等全国コンクール」で農林水産大臣賞を受賞。そして2025年、農林水産省および内閣官房主催のアワード「ディスカバー農山漁村(むら)の宝」で、久礼大正町市場の『「NO KATSUO NO LIFE」な鰹乃國』をテーマにした取り組みが特別賞を受賞しました。
──田中さんはお店を経営される一方で、地域おこしにも尽力されていますね。
90年代は、四国や中国地方で高速道路が続々開通しました。商工会議所や町役場の先輩を「カツオで町おこしをやろう」って巻き込んで、5軒の商店でキャラバンを組んで各地の開通イベントを回ったんです。それが「鰹乃國」の取り組みの始まりですね。
車も費用も全部僕が出すからって言ったら、みんな集まってくれて。「カツオは久礼」とか言いながら、パンフレットを配って。でも当時はどこに行っても、水揚げ量がそんなに多くないからなのか、高知でカツオが獲れることすら知られてなかった。カツオを食べたことがないっていう人も多かったですね。

──今では信じられないですね。
でもみんながっかりするんじゃなくて、なんだか燃えてきて。高速が開通するたび藁焼きのドラム缶を抱えて行きました。「太平洋から日本海へ」高松、岡山、蒜山、鳥取…僕は年間10か所くらいまわって、それを3年くらいやりましたね。藁焼きタタキを実演したら、みんな美味しいって感動してくれて…。きっと「久礼のカツオ」は有名になるって、自信をもらいました。

──その頃「かつお祭」も始められたんですね。
キャラバンと同時期に始めました。久礼の浜を使っての大宴会。2,000~3,000人座れるように、テントを張ってテーブルを並べて。魚屋が10人以上並んで、バンバンカツオを切って、どんどん焼いて、その場でお客さんが食べるという。ピークは2トンくらいカツオを焼きました。酒は持ち込み自由なので、商売にもならなかったけど。だってカツオ焼いてる僕らが途中から酒飲んでわからんようになるんだもの(笑)。主催者側も人を楽しませるというのが目的じゃなくて、まずは自分が楽しむ。でも自分一人で楽しむっていう習慣がないから、みんなで楽しむ。高知の県民性にぴったりでしょ。
コロナやらで、当時より規模は相当小さくなったけど、後輩たちが引き継いでくれて、30年続くお祭りになりました。
──自分のお店の利益だけでなく地域も盛り上げたいという、田中さんのその気持ちを支えるものは一体何ですか?
「自分のために、社会のために、世界のために」が僕のモットーです。まず自分のためにやりなさい。その延長線上に社会や世界があるから、そこにも貢献しなさい。じつはこれ、サラリーマン時代に社長が教えてくれたんです。
サラリーマンの世界はイス取りゲーム。勝とうと思ったら、他人のイスを取らなきゃいけないから、落ちていく仲間を見捨てなきゃいけない。だけど僕はどんな人とも競争したいわけじゃない。みんなと平等でいたいんです。麻雀の雀卓に優劣があってもいいけど、自分だけ勝ち進むのは性に合わないんです。
カツオの漁師さんたちはすごく仲がいいけど、自分が一番になりたいから競争する。でも、決して相手をボコボコに打ちのめさないんです。小さな地域で長年漁師をやってるから、どこかで親戚になったりして繋がっている。落ちこぼれをつくりたくないっていう、この町にはそういう空気があると思います。
「漁師さんがニコニコ漁に出てくれないと」
高知龍馬空港には、カツオを抱えて満面の笑みを浮かべる田中さんの等身大パネルが設置されています。いまや久礼のカツオを語るうえで欠かせない存在です。
──「NO KATSUO NO LIFE」Tシャツ、素敵ですね。
このTシャツ、店の若い子がやりたいっていうから作りました。最初は、そんなの作ってどうするんやと思っていたんですけど、東京の一流ホテルの料理長や食材担当者が着て来てくれるんですよ。「田中さん、また来ましたよ」って。こんなTシャツでカツオ愛が伝染していくのかと思うと、おかしくてうれしくて。

東京では、なかなか美味しいカツオが手に入らないと聞きます。久礼でカツオを食べた人が感動してくれるのはうれしいけれど、一方で、カツオは日本で何百年もかけて培ってきた食文化の一つなのに、まだまだ知られていないとも感じます。だからこそ、一人でも多くの人にカツオ文化をリスペクトしてほしいんです。

──Doleは「フルーツでスマイルを。」というメッセージのもと、フルーツを通じて人々に笑顔を届ける取り組みを続けています。カツオを通じて社会とつながる田中さんの活動にも通じる部分があると思いますが、どのように感じますか?
Doleさんも自分たちの利益追求だけでなく、社会に還元する活動を続けていますよね。僕らが田舎の方でやるのとは全然規模が違うけど、でも「社会に貢献したい」という思いには共感できます。
――ちなみに田中さんは、フルーツはお好きですか?
僕、バナナ大好きですよ。2日に1回は朝食の時に食べます。うちの母はパイナップルが好きでね。一緒に食べることもあります。
──では最後に、田中さんの長年にわたるカツオ愛への取り組みは誰の笑顔につながっていると思いますか?
やっぱり一番は地元の漁師さんたち。漁師さんがニコニコ漁に出てくれないと、この町は残りません。「お客様は神様です」ってお客様重視でやっていると、生産者がつぶれてしまうんです。このまえ、先輩の漁師の20代の孫がカツオ船を継いでくれて…僕は涙を流して喜んだ。だって、これを見るためにずっとやってきたみたいなもんだから。
たぶん30年後、日本で漁村として残っているのは、現在の3分の1もないんじゃないかと僕は見ています。その3分の1に入りたいと思って活動を続けています。
漁師さんたちが笑顔でいてくれて、自分たち商店街もお金を儲けて、お客さんにも新鮮で美味しいカツオを食べてもらって…それこそ「三方良し」っていうのが当たり前にある世界。時々失敗して「ヤバヤバ…」、みたいなこともあるけど(笑)、カツオ愛の取り組みはまだまだ続けていきます。自分も笑い続けていたいもんね。
※記事の情報は2026年7月10日時点のものです。